うつ病ファン待望!

前にもかなり書いたのですが、自分が双極性障害、社交不安障害になった要因というのを、改めて考えて内省したいと思います。 ●少年時代 まず最初に思い浮かぶのが、幼少期。このころに自閉症と診断され、友達も作れず、話し方や聴き方、コミュニケーションの取り方がわからず、ずっと一人で遊んでいました。幼稚園でもいつも一人で、皆が絵をかいたり、楽しそうに遊んでいる中で、黙って窓の外を眺めているだけの喋れない子供でした。 おそらくこのころから自分の心を閉ざして、自分の世界観に逃げていたのでしょう。なぜなら自分の心の中だけが、唯一安全で安心できる場所だったからです。 小学校に入っても、一人でいる、孤独なのは変わりませんでした。誰とも話せず、唯一話せるのは「はい、いいえ、ごめんなさい、おはようございます、さようなら」などの基本的な単語だけでした。顔には表情がなく、常に無表情。その為、ついたあだ名が「鉄仮面」 何をされても「嫌だ、やめて」という言葉を発することができず、常に学校ではいじめの対象でした。椅子に画鋲。消しゴムのカスを投げられる。かばんの中身を隠される。靴を隠される。物を投げつけられる。帰りには鞄を持たされ、お腹を何度も殴られる。「バカ」「アホ」「障害者」「きもい」「近づくな」「何考えてるかこいつわからない」という言葉を浴びせられ、それでも何も言わず、顔色も一切変えずにいました。言えなかった、表情に出せなかったからです。 それでも母親にそのいじめの事をいう事さえできずに、だまっていました。心の中では、泣いていました。本当は悔しい、悲しい、誰か助けて欲しい、そう願っていました。 家庭でも母親は仕事でほとんど家にいなく、父も養父(生まれてすぐ親が離婚して母の連れ後だった)なので、あまり僕とは話をしたりしませんでした。 学校の先生も当時はパワハラが当たり前の時代で、先生がチョークを投げつける、竹刀で尻を叩く、こめかみを拳でグリグリと痛めつける、髪を引っ張りはさみで切られそうになる。そういう先生が多かった時代でした。 唯一安らぐはずの家でさえ、弟が泣くとすべて僕が悪いことにされ、ほっぺたがパンパンに腫れるまで叩かれ、食事は抜き、夜中に外に放り出され、家に入れてもらえませんでした。養父も物を投げつけて、怒りのままに暴言をはき、「ryu,全部お前が悪い!」そうやって怒鳴られていました だから、自分の居場所、安心できるところはどこにもなく、家の近所にある、誰もこない街路時の隅が自分の居場所でした。何かあるとそこにいき、毎日毎日一人で泣いていました。 このいじめや、親の暴力などは中学まで続きました。中学でも相変わらずほとんど喋れず、表情が無表情なので、「きもいやつ」として誰も近寄ってきませんでした。高校も同じで、弁当をとられたり、ジュースを買いにいかされたり、腕相撲を無理やりやらされ、思いっきり地面にたたきつけられたり、殴られたり、もう生きること=苦しいことでしかありませんでした。 そんな幼少期、学生時代を送った僕は、人は誰も信じられないもの、いじめる人たち、怖い存在、憎しみの対象でしかありませんでした。だから早くこんな苦しい人生を終わらせたい、そう願っていました。 ●高校中退 高校も中退したころ、両親は別居し、弟は母に、僕は養父のもとに連れていかれました。もうそのころには養父はアルコール中毒になっていて、家庭で暴れて暴力をふるったり、夜中に包丁を持ち出してきたりと、とても家にいるのが苦痛な日々でした。 僕は高校中退後引きこもりになり、18歳になった時に家にいるのが嫌で、陸上自衛隊に入隊しました。お金も自分で稼げ、寮もあり、地獄のようだった家庭や学校から解放されると思ったからでした。 ●自衛隊と親の離婚、養父の死 自衛隊はきつかったですが、少年時代のいじめや家庭内暴力などに比べれば、はるかに天国でした。2年間の任期を終え、自衛隊を除隊後、溜めたお金で自分で部屋を借りました やっとできた自分だけの安心できる場所でした。しかし、このころには母や養父は離婚をし、母も新しい男と再婚していました。僕のうちに訪ねてくるのは「お金がないから貸して欲しい」そういう時だけ、貸したお金はかえってこず、ギャンブルやお酒、両親の借金の返済に消えていきました。 養父はアル中がひどく、家賃が払えず追い出され、そのまま行方不明になり、長野の山奥で遺体で発見されました。凍死だったと思います。でも当時は養父への憎しみの感情が強く、涙の一つさえ出ませんでした。「ほっとした」「やっといなくなった」それが当時の僕の本音でした。殴られ、罵倒され、子供としての扱いや教育など受けていない自分としては、親とは思えなかったからでした。あるのは強い怒りと憎しみ・・・ ●ホームレス そのうち、母も僕のところにお金を借りにくるようになり、僕自身もお金がなくなり、家賃が払えなくなり、部屋を追い出されました。母のところにいって、ここに住まわせて欲しいと嘆願をしたのですが「新しい彼に嫌われたくない、迷惑をかけたくないから、悪いけど出て行って欲しい。自分でなんとかして」そういわれ、仕方なく、ホームレスの生活をすることになりました。 夜は公園のベンチや、トイレの中、コインランドリーで眠りました。食事は廃棄されたコンビニ弁当や、スーパーで万引きをして暮らしていました。 毎日寝る場所と食料を求めて彷徨い歩き、生きる希望も失っていました。 「強盗に入って刑務所にはいろうか・・・そのほうが楽かも」「生きることに疲れた。いいことなんか何もない・・・もう死のう・・」そうやって電車のホームに飛び込もうとしたり、手首を切ったり、高いところから飛び降りようとしたり、道路に飛び出して車にひかれようとしたり、色々なことをやりました。ですが、死ねませんでした死ぬ間際になって「痛さ、怖さ、辛さ」そういうものを想像すると、怖くてできなかったのです。 いつもこう考えていました。もし一瞬で痛みもなく苦しまないで楽になれる方法があったなら、楽になりたい・・・それ以外に何も考えれらませんでした ●警察 ある時、いつものように万引きをしているところを見つかり、警察に捕まりました。お腹がすいて饅頭を盗んだのです。「お前がやったのは犯罪だ」「どんな理由があってもいけないことだ」そういって調書を取られ、指紋をとられました。 そしてそのままパトカーで連れていかれ、山奥の誰もいない暗闇の中で車は止まりました。「ここから先は別の管轄になる。盗みをするな
らそっちでやれ。うちの管轄でやるな、迷惑だ」そういって警察官は、暗闇の中に消えていきました。真っ暗の誰もいない山奥に一人、僕は一人取り残され、途方に暮れていました。 それから僕は、ただただ歩き続けました。死のうにも死ねない。刑務所にも入る勇気もない。「どうすればいい・・・・誰か助けて・・・」 でも何も答えはかえってきませんでした ●派遣 ふと歩き疲れたときに、店の前にある無料求人誌が目に留まりました。「やはり働くしかないか・・・住み込みで探せば飯も食える・・・」当時は派遣が沢山あり、寮付き、日払いの仕事も沢山あった時代でした。そこで、自販機に落ちている小銭を拾い集め、電話をし、歩いて面接に行きました。写真はなし。履歴書とペンは万引きです。そこで入寮、日払いの仕事を運よく見つける事ができ、それから僕は入寮で仕事を始めました。コピー機の組み立てでした。 ●派遣時代 当時の派遣は、期間があり、期間がくると派遣切りにあい、仕事を失う。そしてまた一から仕事を探しなおす、そういう時代でした。この当時僕はまだ20代前半。ただ黙々とコピー機を作り、仕事が変わっても、黙々とPCを作り、誰ともかかわらず、人と話さず、ずっと一人でいました。 僕の中には、人に対する激しい怒りと憎悪、悲しみがあり、「僕はこんなに辛い人生を送ってきたのに、なぜ他の人は幸せそうに笑っていられるんだ?」「それが羨ましい、ずるい、憎い」そういうひねくれた人間になっていました。 その当時の怒りは激しく、人が笑っているのをみるだけで怒りが爆発し、壁や電柱、ガードレールを殴る、蹴る、暴言を吐いて喧嘩をうる。どうしようもない人間でした。自衛隊に入っていたこともあり、昔と違って体格もよくなり、格好も人を威圧するような恰好をしていました。 今思えば、過去にいじめられたり、暴力をうけて何も抵抗できなかったことへの反発でした。 「すぐキレる。すぐ怒る。」だから誰も人は近寄らず、いつも一人で黙々と仕事をしていました ●対人恐怖そのあとくらいから、様々な異変が起き始めました。電車やバスにのると体が震え、汗が吹き出し、頭が混乱し、その場にいられなくなる。突然人と話せなくなったり、濁音、吃音、など言葉の異常が出るようになりました。特に体の緊張、震えはひどく、人混みにいるだけに頭が混乱し逃げだしたくなる。そんな状態でした。しかし、休み休み仕事をしながら通っていましたが、そのうちに限界がきました。会社に勤めては病状が出ては退職。それを繰り返すようになりました。そして夜は毎晩家族の暴力、幼少期のいじめ、色々な過去のトラウマとなった出来事を思い出しては、うなされる毎日でした。 もうこのころには心身ともに疲弊していました ●双極性障害そんな対人恐怖や、怒りも一時期治まってきたころ、始めて正社員として約10年間仕事をつとめることができました。しかし、管理職になったころ、また昔の症状が色々と出始めました。おそらく、中間管理職のストレスと過度の残業や休出などによる疲労が原因でした。 最初は、緊張型頭痛、逆流食道炎、坐骨神経痛、眼痛、など肉体への病気として症状がではじめました。そのうちに、思考が停止する、頭が真っ白になる、突然切れて狂ったように怒り狂う、寝ないでも仕事を徹夜で続けても疲れない。そうかと思うと、突然糸がきれたように動けなくなり、寝たきりになり、無気力、食欲低下、死んだように眠り、会社を休むようになりました。 このころには様子がおかしいとのことで会社の上司から、病院にいくように言われました。最初についた診断名は「うつ病」でした。 しかし半年ほど療養しても良くならず、結局会社は退職しました。その後色々と診察を重ねていくうちに双極性障害、社交不安障害、ADHDの傾向が強いということがわかりました。 ●現在双極性障害は、遺伝、環境、要因なども影響すると言われています。僕が幼少期から大人になるまでに経験をした様々な辛い出来事が、その発端となったのだと実感しています。 今は多少の気分の波はあるものの、安定と不安定を繰り返しています。いつか過去は過去と自然と割り切れるようになり、未来をみつめ、しっかりと今を生きれるようになりたい。そう思います。  

うつ病 マチ、ウツッテル?

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セルフケアも兼ねて、
うつ病についての講演会に参加。臨床心理士の先生から、お話を伺ってきました。

講演会の内容すべてを、文字に起こすことは出来ないので、
心にズキューンとキタ部分を、
ここに残します。

まず、うつ病って、「心の風邪」という表現をするのを、よく耳にします。
だから、なんとなーく、風邪?軽い症状なの?って、うつ病患者本人でさえも、
誤解をしている。
心の風邪、心の病気、ではなくて、
脳の病気ってことを、まず伝えたい。
心の病気って、思っているうつ病患者の方は、

自分の性格のせい自分の考え方のせい
と、自分自身を責める傾向にある。

原因は、心じゃなくて、脳だから。自分を責める必要はないって、先生は伝えたいと。
(脳のメカニズムについては、次回がんばる)

自分がネガティブな考え方だから、うつ病になった。
じゃなくて、
うつ病だから、
ネガティブな考え方になる。
が、正しい。

私は、なんとかなるでしょタイプで、
ネガティブではない
=うつ病になりにくい
と、思い込んでいた。
ポジティブ野郎でも、うつ病になる可能性あるんだ

で、思い当たる節が、すでにブログにありました…(鋭い人はどのブログがわかるかも?)

長くなるので、続きは次回
※うつ病の講演会ってたくさんあるので、あれ?私の聞いた話と違うって思う部分もあるかもしれませんが、あくまでも、この先生の話はこう、っていう考え方で読んでくださいね。
雨洗濯物干せないねぇ(ミテミテーが激しい息子)(ミテミテって何歳まで続くの)


うつ病 関連ツイート

———-2018/04/24 11:33:01現在、うつ病のニュースを紹介します———-
@kyanachi333 FF外から失礼します。

うつ病があったからより優しく、より人の気持ちが分かる人になれたんですよね。
これは経験者に確実に言えることです。僕も経験者です。(^^)

RT @m_shinya80: うつ病やらなんやらの精神的な病気の治療に最も効果のあると言われるモノがこちらです https://t.co/7hWE4JmwXU